障害のある子に財産を遺すことは、 なぜ有効に機能しないのか
― 終わりなき親亡き後問題 ―
はじめに
自分の人生をどう生きるかを決めるのは、障害の有無に関わらず本人自身であるということは、誰も否定できないことだと思います。ところが、知的や精神に障害のある人の「親なき後」が語られるとき、その主語は、ほとんどの場合、親か支援者です。
親なき後の備えとして、家族信託や生命保険信託、遺言代用信託などを用いて財産を遺し、親の死後に毎月定額を給付する設計が専門家から勧められています。親の不安は切実ですし、財産を遺すこと自体を否定するつもりはありません。しかし私は、残念ながら現行の日本の法制度と支援体制のもとでは、この設計は有効に機能しないと考えています。遺された財産を、本人が地域の中で普通に暮らしていくための支えに変える道筋が、制度上存在しないからです。
そして、この投稿を書き進めるうちに、もう一つ大きな問題に気づかされました。財産を遺す設計も、それを支える制度も、そしてこれから私が述べる議論でさえも、親や支援者の目線で組み立てられているということです。本人が何を幸せと感じ、どこで、誰と、どう暮らしたいのか。この問いが、議論の出発点にほとんど置かれていないのです。
定額給付は「口座に届いた」時点で、渡しきり
信託や保険商品を使えば、たしかに親の死後も毎月定額が本人名義の口座へ振り込まれることになるでしょう。しかし、自ら金銭管理を十分に行うことが難しい本人にとって、たとえ口座残高が増えたとしても、そのお金を本人の望みに沿って食事・衣類・医療・余暇に変えていくことは、それを手伝う人なしには困難です。残念ながら、信託や保険商品は、その手伝う人を仕組みの中に組み込めていないのが現実です。
信託銀行は機械的な定額交付しか行わず、本人の状況に応じて臨機応変に増やしたり止めたりするといった裁量的な交付は引き受けません。一方、信託業法は、2006年信託法改正の附帯決議から20年を経た現在も、営業として信託を引き受ける者に免許と株式会社形態を求めており、福祉法人やNPOが裁量的な福祉型信託の受託者になる道は開かれていません。本人と何年もかけて信頼関係を築き、本人の特性を理解したうえで判断する仕組みは、商品にも制度にもなっていないのです。
毎月いくら渡すかは親が決め、何に使うかは管理する人が決める。そこに、本人の出番はありません。
成年後見制度を利用すれば良いのではないかとの意見もあるでしょうが、成年後見制度はこの空白を埋めません。後見人の多くは本人と月に一度の面会すら行っていないのが現実で、その働きは財産の保全に偏っています。取消権による事後救済は場当たり的な対処にすぎず、むしろ後見人が付いた瞬間から、本人の日常から遠い人がお金の流れを決める(基本的には止める)という構図が生まれます。
大金はむしろ害になる
まとまった財産を本人に遺した場合、弊害は少なくありません。本人名義の口座に無防備に置かれたお金は搾取の対象になり、きょうだい間の争いを生み、施設側の関心を歪め、生活保護という最後の受け皿からも本人を遠ざけます。毎月定額を渡すという分割交付の信託を使えば口座に置く額は抑えられますが、それは一度に届くお金が少なくなるだけで、届いたお金で本人の生活が豊かになるわけではありません。
必要なのはお金ではなく、本人を知る人
本人が健康で本人らしく暮らすために必要なのは、毎日の食事、体調の変化に気づく人、日々の小口の金銭管理、本人の特性に応じた個別の配慮です。これらは、お金で買える商品として市場には存在しません。しかも、食事も健康管理も、本人が何を好み、何を嫌がるのかを知らなければ、ただの「管理」になってしまいます。必要なのは、本人を知る人なのです。
ここで重要なのは、これらが現行の障害福祉サービスの射程外だということです。グループホームは共同生活の場と最低限の食事提供・預り金管理を担いますが、一人ひとりの食生活や健康の管理、特性に合わせた個別の支援が報酬体系に組み込まれておらず、職員の善意と事業所の持ち出しで辛うじて行われています。相談支援専門員はサービスの給付管理と書類に追われ、本人との関係を育てるために費やす時間に対価は払われません。
つまり、親が財産を遺しても、それを受け取って本人の豊かな生活に変える担い手が、制度上どこにもいないのです。信託や保険が役に立たないのではなく、その引き継ぎ先がないのです。
本人が何を望んでいるのか、誰も知らない
では、本人自身は、親なき後の暮らしに何を望んでいるのでしょうか。正直に言えば、私にもよく分かりません。そして、そのことを大規模に調べた研究も、国内では見当たりませんでした。厚生労働省の委託研究の報告書(平成31年)には、障害者の生活実態を調べた研究そのものが「過去にほとんどされていない」と述べられています。暮らしの実態でさえそうなのですから、本人の幸せや望みについては、なおさらです。
国の全国調査(生活のしづらさなどに関する調査)はありますが、調査票は「本人またはその家族など」が記入するもの(実際には、家族が記入していることが多いと考えるのが妥当でしょう)で、尋ねているのも暮らしの実態や困りごとです。本人の望みを聞くための調査ではありません。数少ない手がかりとして、仙台市が知的障害のある本人向けに行ったアンケートがあります。それによると、将来の不安として最も多く挙げられたのは「一緒に生活する家族がいないかもしれない」でした。本人もまた、親なき後を案じているのです。ただ、選択肢から選ぶ形の調査で分かるのは不安の形までで、どう暮らしたいのかまでは見えてきません。
本人の声が拾われにくい理由は、いくつか考えられます。
一つは、聞き方が分からないことです。言葉で気持ちを表すことが難しい人に「あなたにとって幸せとは何ですか」と尋ねても、答えは返ってきません。そこで家族や職員が代わりに答えることになりますが、本人の答えと代わりの答えが一致するとは限りませんし、親が思う本人の幸せと、本人が思う幸せが同じだという保証は、どこにもないのです。
もう一つは、本人の望みは、一度の聞き取りで分かるものではないということです。日々の表情や行動、小さな選択の積み重ねの中から、少しずつ見えてくるものです。本人のことをよく知る人がそばにいなければ、そもそも聞き取ることができません。
さらに言えば、親と本人の思いは、いつも同じとは限りません。親は安全と安定を願い、本人は自由や楽しみ、人とのつながりを望んでいるかもしれません。信託も保険も親の不安に応える仕組みとして作られており、その顧客は親であって本人ではない。そう言ったら言い過ぎでしょうか。
公益信託法はゲームチェンジャーになれるか
2026年4月施行の新公益信託法は、待ち望んだ福祉目的信託を可能とする制度です。受益者を定めない信託を、信託銀行に限らない法人や個人が受託でき、信託業法の免許制の適用を受けず、認可を受ければ公益法人並みの税制優遇を受けられます。公益目的事務には障害者の支援が含まれ、「不特定多数」の要件は、誰もが対象になりうることを求めるだけです。とはいえ、親の願いである「我が子だけへの給付」は、公益信託に必要な「不特定多数」の要件を満たさないため、対象外となります。
奨学金型の公益信託が昔からあるように、公正な基準で選んだ個人に給付することも認められます。つまり、「市内の知的や精神に障害のある人で法定外の生活支援が必要な人に、基準に従って生活支援費を給付する」という設計は、法的には可能です。私が長く「法的に無理」と考えてきた受益者不特定の福祉目的信託が、今年から実現できるようになったのです。
しかし、この信託が可能となったとしても、給付される支援費を受け取って本人の豊かな生活に変える担い手がいないことには、何ら変わりがありません。公益信託は財産の受け皿であって、個々人に応じた支援者を提供するものではないのです。担い手がいなければ、公益信託が生み出したお金も、再び口座残高で止まります。給付の基準を誰が決めるのかという問題もあります。基準が支援する側の目線だけで作られれば、ここでも本人の望みは置き去りになります。
加えて、公益信託は取り崩し型になりやすく、親たちの継続的な拠出が続かなければ終わります。親たちからすれば、拠出したお金が「自分の子の役に立つ」という実感を持ちにくい以上、ナショナルトラストやフードバンクのようにはお金が集まらないでしょう。公益信託は、担い手を持つ法人の財源になりうる脇役であって、それ以上ではありません。
担い手を作る道
ここでいう担い手は、本人の代わりに決める人ではありません。本人の隣にいて、本人の望みを聞き取り、それを日々の暮らしの形にしていく人です。その役割は、意思決定支援そのものと言っても良いはずです。
この担い手を障害福祉サービスの中で確保する道がないことは、すでに述べたとおりです。現行法上の制度で利用できそうなものとしては、労働者協同組合と法人による補助人(2026年民法改正後の補助への一元化を前提とします)が考えられますが、いずれも運営資金の面から考えると現実的ではありません。
海外に目を向けると、カナダ・バンクーバーのPLANは、親が去った後も続く、本人を取り巻く人のネットワークを、有給のファシリテーターが数年かけて育てる仕組みを36年運営しています。つきつめれば、「本人を知る人」を増やす仕組みです。イタリア・トリエステでは、精神病院を閉鎖して浮いた予算を地域の24時間サービスに移し、労働協同組合をその一部品として置きました。いずれも、先に動いたのはお金の流れであり、関係を育てる人に対価を払う道筋を公費で作った点が共通しています。日本に欠けているのは信託法制ではなく、この道筋なのです。
nestでは、日本財団から助成を受けて意思決定支援者養成講座を実施しました。しかし、この意思決定支援者を公費で賄う道筋には全く目処が立っていません。
最後に
親なき後の備えとして「どう財産を遺すか」を論じるより先に、決めることがあります。本人を知り、本人が信頼を寄せる誰かを担い手として育てる仕組みを作ること、そして、担い手を育てる時間にお金を支払う仕組みを作ることです。それが決まらない限り、遺された財産は口座残高のまま本人に届かず、どれほど巧みな信託を組んでも結論は変わりません。
そのためには、行政や企業が継続性を担保できるだけの出資を行って公益信託等の受け皿を作り、あわせて行政が地域の実情に応じて総合支援法の上乗せ・横出し条例を設け、現在の相談支援専門員等をファシリテーターとして活用しながら、本人に必要な担い手を養成していくことしかないように思えます。
ただ、それと同時に忘れてはならないことがあります。本人が何を望んでいるのかを、私たちはまだ知らないということです。担い手を育てることは、本人の声を聞き取れる人を育てることでもあります。そして、担い手が聞き取った本人の声を集め、制度の設計に返していく。そうしなければ、「親なき後問題」と呼ばれて久しいこの切実な問題は、いつまでも親と支援者の間だけで堂々巡りを続けることになるでしょう。
親なき後の主人公は、親ではなく本人です。