第1回で「生データは箱に入れない」とだけお伝えして、理由を後回しにしていました。今回がその回です。この特集でいちばん大事な回 なので、ゆっくりいきます。
インタビューの逐語録が20本あります。正直、AIに要約や整理を手伝ってほしいんです。ダメでしょうか。文字起こし自体もAIがやってくれる時代なのに。
お気持ちはよく分かります。だからこそ先に、置き場所の線 を一緒に引かせてください。語りの中には、お名前も、病名も、ご家族の事情も入っています。線を引いたあとなら、AIにも手伝えることがちゃんとあります。
3つの置き場所 ― 戸棚・箱・AIの手もと
研究にかかわるものの置き場所を、3つに分けます。これがこの回の全部です。
| 置き場所 | 入るもの | 入らないもの |
|---|---|---|
| 🔐 鍵付きの戸棚 | 逐語録・録音・動画・同意書・氏名の対応表 | ― |
| 📦 研究の箱(Git) | 匿名化済みの分析メモ・コーディングメモ・原稿・文献ノート | 生データすべて |
| 🤖 AIの手もと | 箱の中のもののうち、いま必要な断片だけ | 匿名化前のものすべて |
鍵付きの戸棚 は、所属機関のルールに沿った保管場所のことです。大学や研究機関には、研究データの保管規程があります(倫理審査の申請書に「データの保管方法」を書いた、あの欄です)。パスワードのかかった外付けディスク、機関が用意した保存領域など、申請書に書いたとおりの場所に置き、書いたとおりの期間で扱います。ここはGitにもクラウドにも載せません。
研究の箱 に入れてよいのは、個人が特定できない形まで加工したあとのもの だけです。加工の話はこのあとすぐ。
AIの手もと は、さらに絞ります。箱に入っているものでも、丸ごと渡す必要はありません。いま考えたい断片だけを渡します。考え方の土台は「ここから先は見せない」の回と同じですが、研究データは支援記録と同じかそれ以上に重い、と考えてください。協力者は「研究に使うこと」に同意してくださったのであって、「AI事業者のサーバーに送られること」に同意したわけではない——迷ったら、この一文に戻るのがいちばん確実です。
匿名化は、人間の仕事
「じゃあ匿名化そのものをAIにやらせれば早いのでは」と思いつきますよね。それが一番やってはいけない手順です。 匿名化するためにはAIに匿名化前のデータを渡すことになり、線引きがその瞬間に崩れます。匿名化は、生データに触ってよい人間——つまりあなた——の仕事です。
やること自体は、質的研究で普段からやっている作業です。
- 仮名化:氏名をAさん・Bさんに置き換える。誰をAさんにしたかの対応表は、戸棚の中へ(箱に入れたら意味がありません)
- 属性の粗視化:年齢は年代に(47歳→40代)、日付は月や時期に(4月3日→春)
- 固有名の置き換え:施設名・地名・学校名などは「X市」「通所先の事業所」のような一般名に
- 組み合わせの点検:ひとつひとつは匿名でも、組み合わせると特定できる ことがあります(「県内唯一の○○事業所に通う、△△という珍しい趣味の方」など)。珍しい特徴は思い切って落とすか、ぼかします
この加工を通ったものだけが、箱に入り、(必要な断片だけ)AIの手もとに行けます。ここまで来れば、AIは良い相棒です。「この語りの断片から読み取れるテーマの候補を挙げて。私の解釈への反論も1つ」——ほめすぎ対策と組み合わせれば、分析の壁打ち相手になってくれます。
箱の側にも、安全ネットを張る ― .gitignore
原則は「生データを箱に入れない」ですが、人間はうっかりします。文字起こしの作業ファイルを、つい箱の中に保存してしまう——ありそうな事故です。Gitには、その保険があります。「この名前のフォルダは、セーブの対象から外す」 という設定で、.gitignore(ギットイグノア)といいます。
いちばん簡単なやり方は、GitHub Desktopでのひと手間です。
- 箱の中に
データ置き場という作業用フォルダを作る(生データの定位置は戸棚のまま。ここは一時作業用) - 中に何かファイルを置くと、GitHub Desktopの変更一覧に現れる
- その項目を 右クリック → Ignore folder(フォルダを無視)を選ぶ
これで、万一そのフォルダに生データを置いても、セーブポイントには 写り込みません。とくに、いつか箱をインターネット上の書庫(GitHub)に預ける日が来ても、無視したフォルダは一緒に上がりません。原則(入れない)+安全ネット(写り込まない) の二段構えにしておくのが、研究の箱の作法です。
なお、原稿編・第3回でもお伝えしたとおり、書庫に預けるかどうか自体、後から選べる別の話 です。質的データを扱う研究なら、箱は自分のパソコンの中だけ、と決めてしまうのも立派な選択です。
うれしい副産物 ― 履歴が「分析の過程」の記録になる
ここまで守りの話でしたが、最後に攻めの話をひとつ。
質的研究では、「どうやってその解釈にたどり着いたか」を示せること が大事にされます(監査可能性、と呼ばれたりします)。分析メモをこの箱の中で書いていると、Gitの履歴がそのまま——
- いつ、どの語りの断片から、どんなコード(ラベル)を立てたか
- どのコードを、いつ、なぜ統合したり捨てたりしたか
- 解釈が、どの時点でどう変わったか
——を、日付つきで自動的に残してくれます。GitHub DesktopのHistoryタブを開けば、分析の道のりが一覧になっています。あとから整えた「きれいな物語」ではなく、迷いも行き止まりも含めた 本物の過程の記録 です。倫理審査や論文の方法の節で「分析過程の記録を保持している」と、胸を張って書けます。
守りのために始めた仕組みが、研究の質の話につながるんですね。
はい。線引きは研究を縛るためのものではなく、協力してくださった方と、あなたの研究の両方を守る ためのものです。線の内側では、思い切り道具を使ってください。
きょうのまとめと、次回
- 置き場所は3つ。戸棚(生データ)→箱(匿名化済み)→AIの手もと(必要な断片だけ)。右へ行くほど絞る
- 匿名化は人間の仕事。AIにやらせない。対応表は戸棚へ
.gitignore(右クリック→Ignore)で、箱に安全ネットを張る- 分析メモの履歴は、そのまま「分析の過程」の記録になる
ひとこと: この回の内容は、特定の機関のルールではなく、一般的な原則としてお話ししました。実際の研究では、所属機関の規程と倫理審査の条件が、つねにこの記事より優先します。もしこの記事と機関のルールが食い違ったら、迷わず機関のルールに従ってください。そして線引きに迷ったときの合言葉は、AIとの付き合い全般と同じです——迷ったら、渡さない。
最終回の次回は、投稿してからの長い旅の話。査読コメント20件、どこまで直したっけ を起こさない仕組みと、いま研究の世界で話題の 「AIをどこまで使ったかの申告」 を、慌てずに済ませる準備の話です。
あわせて読みたい:AIに話していいこと、いけないこと/共著者とのやりとりを、原稿の隣に置く(原稿編③)/読んだはずの論文が、見つからない(論文編②)
「こんなこと、パソコンやAIでできる?」というギモンがあれば、お問い合わせフォームからぜひ教えてください。次の「教えてAIさん」で取り上げるかもしれません。